保育が必要な人のところへ届ける保育士

STORY
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「保育は人」
私は、約13年間、保育園で働く保育士でした。
その後、フリーの保育士として、私が保育を届けに行くようになりました。
言葉は悪いですが、ゴミ屋敷のような場、葬儀場、結婚式場、ホスピタル、ライブハウス、お産の日に病院など、そこでどうやって保育するの?と言われましたが、どこでも行きました。
そこに、子どもがいたからです。
そこに、誰にも頼れないお母さんお父さんがいたからです。

場所は関係なく、人が行けば保育になる。
だから、保育は人だと思うようになりました。
私の想いの軸は、今までもこれからも何ひとつ変わらないです。
さな保育の由来
さな保育の由来
なんで、さな保育って言うんですか?
って聞かれることがあります。

実はそれほど深い意味はないのです。
私には、三人の子どもがいます。
末っ子の娘は、さなこといいます。
彼女が保育園に入れるまでの期間、私はさなこを連れて、保育をしていました。

保育の依頼があると赤ちゃんのさなこも一緒に出勤し遊んでいる光景を、お母さんたちが「さな保育やね」と。
だから、さな保育。
SANAはラテン語で「きれいな心」という意味があるようです。
その心を以て、これからもお母さんたちに教えていただこうと思います。
「今」のSOSに
「今」のSOSに
目の前のSOSを出してくれた人を「今」一人にしたくないから行くのがさな保育でした。
正直、先のことは考えてなかったです。

なんでそこまでするの?
プライドないの?
色々言われましたが、責任とか先のこととか考えていたら、私は動けなかったと思うのです。

もし、私にプライドがあるとしたら、誰かを一人にしないこと。
大人の味方でいることかもしれません。
先を考えない楽観主義の私は「今日を最後の日と思って」生きています。
さな保育は、さっちゃんの人生みたいと言ってくれた人がいます。
私が通ってきた道
私が通ってきた道
母はいつも私に「ごめんね」と言います。
普通はお母さんがしてあげることが、できないからだそうです。
私は「普通」がわからないのです。
比べるからそうなるのかもしれませんが、私にとってはどうでもいいこと。
生きていてくれてありがとうなのです。
母は、筋ジストロフィーという病と共に生きています。
そういえば、そうだった!という感覚。
母も、一人にしたくない存在です。
母が謝らなくていい社会をまわりの人たちと手を繋いで、つくりたいです。

私のからだに異常が見つかった時期があり、治療中よく手紙を書いていました。
届けたい人に願望や想いを書き、残して、気持ちをリセットしていました。
人は、バランスをとれた人が元気なんだと、その頃思えました。
凸凹は誰でもあると思うのです。
バランスをとれなくなった時、人はプツッと糸が切れてしまうような気がします。

私は、産後2ヶ月での職場復帰を二度経験しました。
上の二人は年子だったので、0歳と1歳の我が子を抱え、
保育園で他の子どもたちを保育していた時期は、必死すぎてよく覚えていません。
共働きで、身内も近くにいないので、頼るべきところは保育園しかありませんでした。
保育士としての私は、子どもたちに優しく接することができるのに
、 母親としての私は我が子にイライラするし、笑えない。
「保育士さんだから」とか、身内にも「首も座らない子を預けて」なんて言われることもストレスでした。

もうあの頃には戻りたくないが本音ですが、一番きつい時期、働き続けた経験が、
今の自分を支えてくれている気もします。
そして、誰にも頼れない立場の人たちの状況を「自分のこととして」想うようになりました。
私は「働く」ということの意味を更に深く考えます。
これまで通ってきた道は、今の私が在るために、大切な大切な時期だったと感じます。
親友の死
親友の死
3人目の産後、ゆっくりとはいかない状況でしたが、生まれてきてくれた我が子に
「ありがとう」しかなく、ふんばれました。

その年の6月、
親友がかえらぬ人となりました。

出産やさな保育でかかわる人たちを通し、
命について考えさせられていた私に、 彼の死は深く深く、突き刺さりました。
私にとっては、母と一緒。
ただ居てくれたらいい人だったのです。

私がかかわる人たちは、氷山の一角です。
何らかの生き辛さを抱える人たちは、たくさん溢れています。
私は、奥さんと娘さんを残して逝った親友になりたい。
私がお父さん。
それくらい、血のつながりではなく、目の前にいる大人がその子の親になる感覚。
それが、本物のユニバーサルのような気がします。
「祈り」を通じて
「祈り」を通じて
私は、クリスチャンではありませんが、洗濯物を干す時間に、祈る癖があります。
生きていてくれさえいればいい、大切な人たちの幸せを想います。
私は、人の前に立つことも、SNSなどで発信することも好きではありませんでした。

目の前の人に届けることだけを考えていました。
でも、今は、この想いを、届きにくい人たちにこそ届けたいと思うようになりました。

たまたまオンラインでさな保育を知った人が「生きようと思った」と。
逢いに行けなくても、誰かにキッカケを落とすことができるということを、今、私が皆さんから教えていただいています。
スタッフは「縁の下の力持ち」
スタッフは「縁の下の力持ち」
私は、さな保育で目の前の人たちを放っておけなかったことを、 ルクロ(福祉をしているフランス料理店)の縁の下の力持ちたちに返していただいてるような気持ちです。
ここには、本気の横と横の関係があります。
私がいつも感じているのは、どこか大人が上で、子どもが下の構図があるような気がするんです。
そして、親になった瞬間「教えなきゃ」になる気もします。

ここでは、大人も子どももみんな、私のことをさっちゃんと呼びます。
私があそんでもらっているのです。
大人が子どもになる感覚。
子どもの興味に大人がとことん寄り添った時、子どもたちは最高の笑顔になります。
みんなちがって、みんないい。
と言いますが、みんないいにするために動く人が、どれだけいるでしょうか?
障害という言葉は好きではありませんが、障害って「生き辛さ」だとしたら、誰にでもあります。
高齢者もそうです。
目に見えるか、見えないによるかもしれません。
障害は個性という言葉、私は少し乱暴な気がします。
まわりの理解が当たり前にあれば、個性になると思いますが。
どっちが!ではなく、相互理解。
自分の価値観を誰かに押しつけだすと、おかしくなるような気がします。
おもてなしのプロばかりの「ル・クッカー」は「その人にとって」を考えます。
すると、できることしかない居場所になります!
たとえ、たった一人でも。
たとえ、たった一人でも。
私が、子育ても仕事も、ぜんぜん笑えなかった時期、ある方に言われました。

「顔が晴れるほうの顔晴るにしようね」

さな保育を支えてくださる人たちを見ていると、本当にそう思います。
この笑顔に、私は心から励まされます。

例えば、一人でお産せざるを得ない女性もいます。
私もそうでした。その時、初めて出会った助産師さんが側に居てくれました。
赤ちゃんに「がんばれ」と声をかけてくださいました。

身内じゃなくても。
家族じゃなくても。
たとえ、たった一人でも。
自分のことを自分以上に信じきってくれる「人」の存在で、人は動く。
生きれる。
心から思えたのです。
その時の私は、安心感しかありませんでした。

私が誰かにとっての、安心できる居場所でありたいと思います。
これからも、目の前の人のために何ができるか。
その想いが渦をつくっていくことを信じて、ル・クッカーでも、さな保育の理念をもつ私がかかわっていきます。
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